房総の春の旅行が見出しにあって、偶然手にしたJRの旅行案内小冊子。その始まりに、浅井慎平のエッセイがあり、「海岸美術館」(Google Local による所在地はこちら。)の存在を初めて知った。91年に開館したこの美術館には、浅井氏の40年分の作品の集大成が展示されているらしい。房総半島の南、千倉町の美しい海に魅入られて同氏が作りあげたこの小さな写真美術館は、今回の小さな春の旅の終着点にふさわしい。
鴨川シーワールドの駐車場待ちの長い行列の横を通り過ぎてから、南房総に至るこのドライブ・ルートは、春休みにもかかわらずそれほど混雑も無く快適。鴨川 の人気回転寿司「丸藤」でふわりと甘くて新鮮なキンメダイやカツオの寿司を楽しむと、菜の花やポピーにカラフルに縁取られた国道を、千倉を目指して南下。 すると、「海岸」という名のその美術館は海沿いではなく、千倉の自然あふれる山の中、小さな池のほとりにひっそりと現れた。
海岸沿いは夏 にかけて人も増え、国道の車の音もある。道の駅が出来る等、観光開発も進んでいる。浅井氏があえて人里離れた山の中を選んだ理由は、静寂と自然を求めて だったからなのだろうな、と、美術館を訪れて一人勝手に納得した。そういえば浅井氏の南の島をモチーフにした写真には、全くビーチは出てこないながら、海 の風を感じさせる作品も多い。テーブルに置かれた、半透明緑色のビールの空瓶が、ジャマイカの風を思い出させる。春の遅い午後、差し込む陽が傾き始めた白 い空間に、千倉の海の風がすうっと通った様な錯覚を覚えた。
風を求めて美術館の裏庭に出ると、千倉の自然の営みを自分の眼で確かめる事も 出来る。モクレンの花はつぼみを開く前の力が入った状態で、冬眠から覚めたカエルたちも池のあちこちでのそのそ動いては生命の循環活動にいそしんでいる。 この美術館は千倉の自然という小さな生態系の真ん中に、違和感が無い様に静かに収まっているのだ。写真家は、美術館を作るとともに、自分が愛する場所を訪れる為の心地よい 場所を、ここに用意したのだろう。そういう気がした。千倉の美しい海も、車で10分以内の距離にあるのだから。
想像したよりもずっと質素な、落ち着いた美術館だが、忙しい時を止めて、色々な事を考える為の貴重な時間が与えられた。旅のゴールにふさわしい場所だった。
千 倉・野島崎から西方にある岬の向こうに沈む紅色の陽光はいよいよ力を無くし、濃紺の闇に包まれ始めた東京湾を左手に見ながら、国道を木更津を目指して北上開始す る。アクアラインに入り、海ほたるから東京湾下にダイブすると、すぐその先には眠らない東京のネオンが戻ってくる。忙しい都会時間に、いつしかマイカーは 戻されて行くのだが、自分の中ではほんの少しだけ、海岸美術館での豊かで静寂な時が刻まれ始めた気がした。もうすぐ4月、か。
山と溪谷社 (2004/10)
売り上げランキング: 231,754